悩みと心が楽になるブログ。

心理学、仏教、スピリチュアル、など古今東西の様々なモノから感じた事、悩みが楽になるヒントを発信していきます。

喜ばせ屋さん。

 

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承認欲求を満たしたい。

承認欲求の続きのような感じだが、また書いていこうと思います。

喜ばせ屋というのをご存じだろうか。

間違ってもお金をくれる人とか、何か買ってくれる人ではない。

そんな人がいたら、まっさきに知り合いたいものです。

やたらと人を喜ばせようとする人。

何故そうなるのかといえば、これも孤独や寂しさが関係していると思う。

承認欲求が強すぎて生きづらさに繋がっている。

他人に承認されるかどうかで自分の価値が上がったり、下がったりして。

他人に自分の価値や幸せをゆだねている。

こんなに生きづらい事はない。

自分の価値を、人生の価値を他人に決めてもらうという事になる。

だから普段から人の目が気になって仕方がない。

喜ばせ屋も心の穴をとにかく埋めたい、そう思っている。

常に目を気にして、どうしたら認められるかを考えている。

まだ、子供のままで。

子供が親に「認めて」「気にして」と求めるのと同じだ。

大人になりきれないまま、大人になったような状態、自分の気持ちや感情の責任を自分でとれないということ。

そうやって周りの言う通り、思い通りになる事を選択してきたということ。

孤独の記事でも書いたが、自分の気持ちを無視し続けている。

そうやって心を病んでいく人も多いのではないかと思う。

喜ばせたいという欲求は麻薬と同じ。

周りに認められないと自分の価値を感じられないという事は、常に喜ばせていないと不安で仕方がない。

嫌々人の顔色を気にして喜ばせる人と、自分から進んで喜ばせる人の二種類あると思う。

嫌々人を喜ばせる人はこの記事で書いていることなので、読んでない人は読んでみて欲しい。

孤独を抱える人。 - 心は晴れのち曇り。

自分から進んで喜ばせようとする人も似ているのだが、嫌々ではなく「親切心」から喜ばせようとする。

実際には「親切をしよう」と思い込んでいるだけで、必要以上に親切をしようとする。(自分を持っていて、親切をする場合は喜ばせ屋ではない)

そうする事が自分の価値で、自分が辛い思いをした経験があれば、辛い人を助ける事が価値になる。

この想いは良い方向に使えれば自分の人生を豊かにしてくれる。

しかし、心が整っていないまま、相手に子供の自分を投影して「自分」を助けようとしていると、辛さが自分を襲ってくる。

人はそう簡単に自分の思い通りにならないものだ。

でも、喜ばせ屋は自分が満たされたいから親切をしている、だからいくら「親切」だと思っていても。

自分が満たされない行動をされると耐えられない。

例えば、自分から近づいていって、親切心で話しを聞いても「アドバイスをしたのに言う事聞いてくれない」「こんなに話しを聞いてあげたのに」と不満を爆発させる。

良い人になりたくて、自分を満たしたいという気持ちで近づいてしまう。

本人ははそうは思っていないと思う。

自分が良いと思った事でも、上手くいかない事は起こる。

それに耐えられない。

多分本人もそれは分かっている事なんだと思うが、自分の「満たされない」で見えなくなってしまう。

不満を抱えながら良い人を演じている。

2種類のタイプがいると思うと言ったが、どちらも基本的に普段から人の顔色を伺っている。

怒られないように、ダメな自分にならないように、細心の注意をはらい行動している。

これではダメだと思いながら自分に勇気がもてない。

そもそも、良い人というのはどういう人なんだろうか。

自分に問いかけて欲しい。

例えば、「相手のために都合よく動く人」が良い人と言えるのか?「他人に振り回されて疲弊する人」が良い人なのか?

自分の中の良い人とはどんな人なんだろうか?

自分では良い人になっているつもりかもしれませんが、相手にとったら「都合の良い人」で「自分が無く」「居てもいなくてもよい人」な事がほとんどで、都合よく使えるから一緒に居るのかもしれません。

そんな人も結構います。(本当に感謝してくれる人もいます。そういう人は大切にしてください)

もし、自分の不安、ダメな自分、という不安から良い人を演じているのなら。

あなたの事なんか、そこまで気にして感謝なんかされない事がほとんどではないでしょうか。

相手の都合の良いように行動しても、自分の不安を打ち消すように行動しても、相手からしたら良い人ではないのです。

良い人ではなく「自分らしい人」を目指してみてください。

そして、自分の感情に蓋をし過ぎないようにしてください。

 

今日はここまで。

貴重な時間でこのブログを読んでくれて、ありがとうございました。

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ドラマクイーン。

 

被害者という最高の快感があるのを知っているだろうか。

あ、その前に…

 

初めに言っておきますが、このブログは特定の人を批判して書いているとかではないです。

自分の過去の経験、心理学、仏教、など色々なモノを自分で勝手に解釈し、完全に主観でこのブログは書いています。

心の話しはデリケートなので一応書いておきます。

ご理解よろしくお願いします。

 

では続き。

自分は可哀想な人間だというスタンスで、他人とのコミュニケーションをとる人がいる。

その人たちは人前で無意識の演技で同情を誘い、人間関係を築きます。

こういう人をドラマクイーンと言ったりしますね。

被害者を演じる人という意味です。

男性でも居ますが、女性に多いと言われていて。

何故こんな事をするのかと言えば、被害者になるとメリットが沢山あるから。

これに尽きる。

被害者になれば楽にその場をやり過ごせる。
そして気持ちがいい場合もあるでしょう。

相手を黙らせる事で「してやったり!」「言い返せないだろ」「これで責められない、安心できる」など様々な気持ちが湧き上がるはず。

それに被害者でいれば「自分の主張が通せる」という事を知っています。

「私はこんなに傷ついた!だからお前が悪いんだ!」

だからお前が悪いんだ!と直接言わないですが、結果的にそういう空気になっている事が多い。

そしてドラマクイーンの中には言葉が強い人もいる。

「○○しなさい」「○○しない貴方が悪い!」「あれダメ、これダメ」など口調が強めだったり。

あげくの果てに人の事をバカにする人もいる。

自分が実際に出会った事があるのだが、数人いた。

その中に心を扱う人もいた。

人の悩みを聞いた後に。

「そんなの気にしてんの!?バカじゃない?」「はいはい、まだ悩んでるの?」

悩みを抱えた人からしたら、相手を傷つける言葉でしかない。

返答が、この言葉だったらショックではなかろうか。

普段から24時間、心を扱うものとして、注意を払い会話しながら生きろ!なんて絶対に言わないが、悩みを聴いた時その対応は酷すぎないか。

でも、そこで「それは酷いんじゃないか!」と指摘されれば。

「こわい…そういう言い方されると…昔の傷を思い出しちゃった…うう…」と言う。

そうやって、責められたら泣いて被害者に入ればいい。

悪い立場から、被害者になれば有利になる。

ここで「被害者ぶってる!」なんて言ったら、こっちが悪者になるだろう。

「そんなつもりじゃなかったのに…」「○○さんが悪いんじゃないの、私が悪いの…」と泣き始めるのだ。

「私って可哀想でしょ、こんな事言われて、○○さんの言葉に傷ついてるのに、相手を責めない私って健気に頑張ってるでしょ?だから私の味方になりなさい。」と言ってるわけだ。

被害者になる事で自分が有利になり、責められないから。

これは、本人からしたら相当なメリットです。

ただ、酷い言葉を浴びせて泣かしたりはダメですよ。

それと泣く人が全員がそうとは限らないと思います。

ただ、泣いた時に誰かが悪者になったり、罪悪感を抱くような空気を作るクセがある場合は注意しなければならない。

これらは無意識で行なわれるから。

強い口調で上から支配できないなら、下から支配してみようという事。

押してもダメなら、引いてみな!です。

そして極めつけは、相手が居なくなったら。

「私が悪いのだけど、○○さん…あの言葉はないよね…」
「こんな言葉を言われて、凄く傷ついてる」

「あの人はひどい」と陰口をたたいて、まわりの同情を誘い、心配されることに安心を得たり、心地よさを味わいます。

「自分が悪い」「相手は悪くない」
「大丈夫、気にしてない」と言いながら批判をする。

大丈夫なんじゃないんかーい!!!Σ\(゚Д゚;)

とツッコミを入れたくなる。

一生懸命「気にして」「味方になって」「優しくして」とアピールしている。

相手から自分に注目を集めて「相手を打ち負かした!」と優越感もあるでしょう。

こんな自分だけに注目を集められる、他人より自分が上だ、下だとか。

そんな価値観なので、そこに心地よさを感じている事だろう。

そして、言われた周りの人も分からず同情してしまう人が多いです。

大体は弱い自分を演じて「まわりに甘える」ことで味方を増やしていきます。

それに相手が異性だったら、甘えられれば突き放せない人が多い。

傷つけられたと聞けば、その人は可哀そうで、傷つける人から守らなきゃ!と優しい人は思うでしょうからね。

そうやってドラマクイーンの世界は作られていきます。

あと、被害者になる時は必ずギャラリーがいるんです。

自分をアピールする事が目的なので、必ずギャラリーが居るところでやります。

まわりに誰かいないと被害者をアピールできないから当然なのですが。

これを無意識にやっているので。

それもかなり厄介。

どのくらい厄介なのかというと、夜に花火を見ている時に、顔のまわりをブーーーンと飛び回る蚊と同じくらい厄介なのだ。

花火を見たいのに蚊が気になって、花火の感動が失われる、最悪の結末が待っているかもしれない!という不安で押し潰されかねない。

厄介すぎる…

いずれにせよ、本人が気づかない限りは治らないという事。

自分だったら極力関わらない、関わってもバッサリ割り切ってしまうと思う。

それと、関わる時には心構えが必要。

泣いたとしても、あなたが意図して傷つけたのでなければ1回心から謝ればいいと思う。

泣くというのは相手の課題なのです。

それは相手が乗り越えなければならない課題が出てきただけなのです。

冷たいと思う人もいるかもしれないが、どんな事で傷つけるか分からないのに、気にしていたら会話が出来ない。

相手を思いやり会話をしていても、そういう時はありますからね。

それに仲の良い友人なら、謝れば許してくれるし、陰口を言ったりしないでしょう。

許してくれない、陰口を言われるのなら離れなさいということ。

課題を分けなければ何が誰の課題か分からないまま、お互い踏み込みすぎたり、人間関係がグチャグチャになります。

もし、謝るだけじゃ申し訳ないと思うなら、相手の課題を乗り越える事を手伝ったりした方がいい。

ただ、ドラマクイーンはそんな自分を認めないでしょうけど。

被害者になれなくなりますからね。

とにかく、割り切って考えて、距離を保ちながら付き合う事。

できれば離れてもいいなら、離れた方がいいとは思いますけどね。

ドラマクイーンは、この関わり方を辞めない限り人は離れ、心は嫉妬や妬み、執着の業火に焼かれ、ずっと苦しく。

幸せにはなれないでしょう。

今日はここまで。

 

何回も言いますが、間違っても誰か特定の人の事ではないですからね。

では、最後まで貴重なお時間を使って読んで頂いて、ありがとうございました。

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承認欲求を嫌うな。

承認欲求と聞くと「無い方がいい」と思い浮かべる人も多いんじゃないでしょうか?

昔はよく「ダメダメ!他者に求めすぎなんだよ」とか、言われた事があります。

「そんな事気にしてるの?承認欲求の塊なんだ」とか。

「外には求めてもしょうがないんだよ」とかね。


若かったので「偉そうに、自分達はどうなんだ?承認欲求はあるじゃねーか。」と思ってました。


やった事が上司や同僚に評価されなければ、ショック受けるだろうし。

SNSで例えるなら「いいね」が減れば気になってしまう。

フォローが外れればショックを受ける。

そう思っていました。


その考えは、今も変わってなくて。
【人間】なんてそんなもんだと思います。

親鸞聖人も自分の事を「煩悩具足の凡夫」(ぼんのうぐそくのぼんぶ)と言いました。

我が身は100%煩悩まみれ、一般人と変わらない。

20年も修行した後の言葉ですからね、考えさせられます。


人間はエゴの塊なのです。
どんな人でも持っています。


承認欲求を過剰に他者に求める人だって、理由があって、そうなるべくしてなってるだけ。


例えば、幼少期に親との関係が上手くいかなかったとか、親と触れ合う機会が無かったとか。

そういう環境だと神経が育たなかったり、遺伝だってありえるのだから。

本人だけが100%悪いというわけではない。

【欲求が満たされないから不満を爆発させたり、バレないと思って悪口、陰口、を言ったり。あるいは投影をして他人を傷つけるなど、傷つける行為はイケナイです。それはやめてくださいね。】


でも、とても生きづらいのは確かで、本人は相当に辛い。

だから、入ってくる情報で「外向きな承認欲求はダメです!」「承認欲求はあったらダメ!」と見ると。

やっぱり自分の中にある「承認欲求」はダメなモノなんだ、「自分て何やってもダメだ」と思ってしまう。

これは、よく考えれば。
自分が悪いというよりは、環境が悪かったとか、そういう可能性も十分ある。

だから、「ダメな自分」に同情しないことです。

自分はなんて可哀想なんだ。
こんな可哀想な自分は良い人生は歩めない。

こう思っているならやめて欲しい。

こんな風に思っていれば「聞いて!聞いて!分かって!この気持ちを受け止めて!」と暴走してしまうから。

聞いて!分かって!と強く思うばかりに、相手の事情や時間を考えず。
自分の思いばかりを相手にぶつければ、それはトラブルになるのです。

または、自分のダメを見ないように、隠すために人助けをし、良い人に見せようとしたり。
距離をつめるだけ、つめて近くなって、自分の思い通りにならなければ見放す。

相手は相手の物語を生きている主人公で、あなたの親ではないし。

あなたの心に空いた穴を埋める存在ではない。「こんな理由があってこうなってしまった、そんな自分は不幸な環境で生きてきたんだ」

そうやって真実を受け入れて、「被害を受けている自分」に寄り添ってあげて欲しい。

仏教では、ありのままを見ると言われます。

それは、何がどう起こって、どうなったのか。
ちゃんと分析をして、ありのままを見るという事。

その上で受け入れる。

ただ「自分は可哀想な人間だ。自分は幸せになれない」と同情するのは、真実を見てない事になります。

だから、ちゃんと自分を知って寄り添って欲しいんです。

知っているのと、知らないのでは雲泥の差があります。

それと。

承認欲求がなさそうに見える人は、欲求の方向が違うのと、コントロールできるだけの違いです。


そもそも、「承認欲求がない」事に価値があるとは誰が決めた事なのでしょうか?

承認欲求なんて全員あるのに。

なんだか分からないウチに、脳に刷り込まれた常識ではないでしょうか。

まぁ、とはいえ。
確承認欲求が苦しめる事があるのも事実ですよね。

そこも考えなければいけません。

例えば。

承認欲求むき出しで、意見が合わない、自分の方が知識がある!
「それはちがうだろ!」と人前でマウントを取ったり。

「自分の方が上だ!」「これが正解だ!」と他人を責め立てたり。

自分を抑えられなくなりますからね。


今はTwitterでもスペースという、不特定多数の人が喋れる機能があったり、文字でのやり取りもそうですが。

そこで、マウントを取ったり、過剰に批判してるのを見たり、聞いた事があります。

「お前のやっている事は○○だ!」「○○のクセに!」などDMで直接言われる事もあると耳にしました。(自分も言われた事があります)


これを読んでる人も少なからず、見たり、聞いたりした方はいるのではないでしょうか?

こういうマウントは自分の中でまだ、抱えたものが残っている場合もあります。

例えば。

辛い時期を乗り越えて楽になると。
「楽になった!これがが正解なんだ!悟った!」と思ったりするものです。

そうすると、それがその人の中の正解であり正義なので。
それ以外は「認めない」という人も出てきます。

悟ったと思っているので、そうなってしまいますよね。

何かに怯えていた人であれば、怯えなくなった自分になった事に価値を見出し、このやり方、考え方が絶対に正しい!(価値を見出すのは悪くないと思いますし、正しいと自分の道を進む事は良いと思います)

そして「こうしなさい!こういう考えを持ちなさい!これが正解です!」と言う。

それまでの生きてきた中で、辛い時期を乗り越えたのは素晴らしい事です。

でも、まだ「自分」というモノを手に入れてないのではないか?
かつての自分もそうだったように、どうしてもそう思ってしまうのです。

凄く自信がありそうで、悟ったように見えても。
本当は、心の奥底では自信のなさ、無価値感、怒りはまだ残っていて。

「色々な考えがあっていい」「否定はしない」と言いながら、口調は強く批判的で。
これが絶対正しいと固執している。

この考えは〇です、でもこの考えは✕です。
そうやって合わないモノを批判しながら。

心の奥底に抱えたものを隠すように、しがみついて生きているように見える。

だから、もっと楽にしていいと思う。

物事は起こるべくして、起こっていて、みんな乗り越える力はある。
お互いの課題を分かっていれば入り込み過ぎないし。

人それぞれの人生という物語を生きている、だからその物語の中の価値観があって当然。
それは別にいいと思えば、必要以上に過剰に批判的になる必要もない。

承認欲求もあって当然だし。
ある、無し関係なくその人には価値がある。

そんな気がしてならないのです。

そうやって悩みながら経験して、コントロールしながら生きていくのが人間なんだと思う。

だから、承認欲求が「ある」「無い」とか。
どっちでも良くて扱い方次第。

「ある、無し」にショックを受けないでください。


承認欲求がない自分に価値があるなんて変でしょう?
元々、そんな事は関係なく価値があるんですよ。

「ダメ」な自分だって。

それって誰かに思わされてるだけなんじゃないですか?

だから、あまり気にし過ぎるのは良くない。
真実を見るんです。

上手く付き合っていくのが承認欲求との付き合い方です。

 

今日はここまで。

好き勝手書いてしまいましたが。
自分の事など思い返しながら、書いているので。
間違っても誰か特定の人を批判しようという訳では無いです。

読みづらい箇所もあったかと思いますが、ごめんなさい。

貴重な時間を頂き、最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。

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孤独を抱える人。

 

孤独が心を曇らせる。

 

孤独について書いて見ようと思う。

孤独というのは誰にでもある。

何かの条件を満たした時に、きっと顔をだすだろう。

しかし、本人も知らずのうちに心に居座っていて、ずっと抱えてきた孤独というのは心を曇らせてしまう。

友人関係、恋愛、仕事など、様々な所で影響してくる。

自分自身もその一人だったから、この気持ちがよくわかる。

すごく簡単にいうと「寂しい」。

とにかくやり場のない寂しさを、本人もどこに向ければいいのか、分からないまま生きていて。

抱えているものが、寂しさなのかも分からず両手で抱えている。

この寂しさがやっかいで、人間関係では特に生きづらさとなって顔を出す。

正直こんな孤独なんか見たくもない。

自分の中にこんなに悲しい、寂しい孤独な気持ちがあるなんて感じたくもない。

だから、この孤独を見ないようにしたいから。

嫌いな人でも、孤独を埋めてくれさえすれば好きだと思い込もうとしてしまう。

心の底では「こいつ嫌い」と思っているのに、「親友」だと思って一緒にいたり、「ここが居場所だ」と自分の気持ちに嘘をつく。

本当は「気持ち悪くなるくらい嫌い」なのにだ。

例えば、すぐ怒るワガママな人が居たとする。

この人は当然理不尽な事も言ってくるだろう。

しかし、孤独があって離れられない人もいて。

理不尽を言われても、この人の言い分にも一理ある、この人は悪い人じゃないと「ヘドが出る程嫌いなくせに」一緒に居る事を選ぶ。

まるで、親に虐待や暴言を吐かれ続けても、足にしがみついて離れない子供の様に。

実際に子供の頃にこのような経験をしている人も多いように感じる。

要は心に抱えた「孤独」を埋めたい。

ただそれだけ。

とにかく自分自身が、存在自体が不安なんだ。

そうやって、無意識に「親友だ」「良い人だ」という蓋を作り、その作り出した気持ちを感じる事によって。

その子供の自分を感じないで済む、そしてその子は冷たい牢獄に閉じ込めてしまう

こうなると、意識しない限り気づくことは難しくなる。

何故かといえば、自分と子供の自分の距離をとっているから。

無意識とはそれほど気づきにくい。

人間の心の中には沢山の自分がいる。

この自分との距離に気づかなければ、一生気づくことはないだろう。

辛い時は、辛いでいい。

生きていると辛くなることは必ずあるもの。

そんな時は、そのままその気持ちを感じる事だ。

そして、その気持ちは口に出して言う。

それと、自分にとにかく寄り添うこと。

肉体的な疲れだって、何らかの発散をしなければ体は壊れてしまう。

心だってそう、言えずに溜め込むことが良くない。

溜め込むとどうなるか、それは体や心を壊すという事につながる。

溜め込むときっとこう考える。

不満を言えないから、どういう理由をつければこの感情を感じないように出来るか。

無意識に不満を閉じ込める方法を探そうと勝手にしてしまう。

そして「この人の言う事も一理ある」「自分にも落ち度があるからしょうがない」と理由をつける。

そうじゃない、ちゃんと言葉にして出すことが大事だ。

話を聞いて貰えるなら、聞いてもらった方がいい。

声に出すことも大事。

ただ、話を聞いて貰う人はキチンと選ぶこと。

そして、1人の時間があれば「自分はこんな気持ちなんだ」「こんな事を思ってたんだ」「それは辛いに決まってるよね」と寄り添ってほしい。

ちゃんと自分が自分に寄り添い、気持ちを感じきって欲しいと思う。

この感情に気づがず、寄り添いもせず、ずっと溜め込んで自分を隠せば、苦しみはなくならない。

後から「もしかしたら自分は気持ちを押し込めてきたのかもしれない」と思うキッカケがあればいいのだが、そういう人ばかりではない。

ずっと人間関係で苦しむことになりかねない。

良い子でいなくていい。

何故苦しいのか考える事は大事だと思っている。

何も考えずに、自分の人生に絶望しながら生きていても何もいい事が無いからだ。

何もいい事が無いというと誤解されるかもしれないので、言い換えると「いい事があるのに気づけない」「いい事が起こるようにエネルギーを使えないから」である。

人に依存して文句ばかり言っていても、良い事なんか気づかないし、起こらない。

自分の環境はどうだったか、この気持ちはどうして出てきたのか。

目の前の出来事はどういう状況で、その人とはどういう関係なのか。

しっかりありのままを見て、受け入れる。

うまくいってない関係を「うまくいっている」と言い続けても意味はない。

そういう事に気づくこと。

そして大事な事が「いいかげん」になること。

いい加減というと何か時間も守らず、適当に生きればいいというイメージが出てくる人もいるかもしれない。

そうじゃなくて「良い加減」という事だ。

自分にとってどのくらいが良い加減なのか知る事。

自分には何が出来て、何が出来ないのか知る事。

自分は良い加減で生きていいと知る事。

いい加減を知らないと、エネルギーを自分が生きづらくなるように使ってしまう。

そして決まってそういう時は、自分か出来る事が少なくなり、視野が狭くなる。

だから、少しミスをすれば「自分は何もできない」「自分は価値がない」「自分軸がない」と感じ、自分責めが始まる。

人間なんて産まれてから、死ぬまで数え切れないほどのミスをする。

でも、自分の存在さえ不安に感じているから、ミスをすれば、さっき書いたようなセリフを、自分に投げつけ責めてしまう。

特に自分軸なんて、出来事の解釈次第で変わってしまう。

自分は「無理やりやらされている」と感じるのか、「必要だからやっている」と感じるのかでも、同じ出来事なのに変わってしまう。

解釈の仕方だけだ。

そこを、自分の気持ちを感じて、自分に寄り添って、自分は何を思っているのか知ることで「自分はこういう人間だ!」と自分軸を作ってほしい。

人間が持っているエネルギーが決まっているとして、例えば100エネルギー持っているとする。

勘違いで90を自分が生きにくくなることに使っていれば、それは生きにくいのは当然。

解釈により良いも悪いも、どっちにエネルギーを使うか決まってしまう。

「生きづらさ」というのは「自分の中の声」を無視をして、受け入れない事を積み重ねてきたモノだ。

きっと「〜であるべき」「〜でなくてはならない」「〜しなければならない」といつも自分を律して、気持ちを押し殺して我慢をしてきたのではないだろうか。

もう、そんなに我慢しなくていい。

もう、そんなに頑張らなくていい。

とにかく「良い子でいなくていい」ということ。

自分の中の声を無視し続け、良い子でいなきゃ「認められない」「愛されない」「また独りぼっちだ」と無理をして頑張らない。

自分の声を聴き、それを実際の行動として表すこと。

心の中の自分の望みをできる範囲でいいから叶えてあげること。

どれだけ辛い思いをして、何千日、何万日を乗り越えてきた、この自分を受け入れなければ、自分が可哀想すぎるし、自分に失礼でしょう?

自分が自分に寄り添わなくて、他人や他の何かに寄り添ってくれと求めても、辛さはなくならない。

急に変われと言われても無理でしょう。

すぐには無理かもしれませんが、気づいて自分と会話をしていくことで、自分の気持ちに気づき。

そして自分の考え、時には勇気も必要になるかもしれません。

行動や生活を少しづつ変化させていくことで変わってくると思います。

自分の事を大事にしてあげてください。

それでは、今日はここまで。

 

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

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