悩みと心が楽になるブログ。

心理学、仏教、スピリチュアル、など古今東西の様々なモノから感じた事、悩みが楽になるヒントを発信していきます。

承認欲求を嫌うな。

承認欲求と聞くと「無い方がいい」と思い浮かべる人も多いんじゃないでしょうか?

昔はよく「ダメダメ!他者に求めすぎなんだよ」とか、言われた事があります。

「そんな事気にしてるの?承認欲求の塊なんだ」とか。

「外には求めてもしょうがないんだよ」とかね。


若かったので「偉そうに、自分達はどうなんだ?承認欲求はあるじゃねーか。」と思ってました。


やった事が上司や同僚に評価されなければ、ショック受けるだろうし。

SNSで例えるなら「いいね」が減れば気になってしまう。

フォローが外れればショックを受ける。

そう思っていました。


その考えは、今も変わってなくて。
【人間】なんてそんなもんだと思います。

親鸞聖人も自分の事を「煩悩具足の凡夫」(ぼんのうぐそくのぼんぶ)と言いました。

我が身は100%煩悩まみれ、一般人と変わらない。

20年も修行した後の言葉ですからね、考えさせられます。


人間はエゴの塊なのです。
どんな人でも持っています。


承認欲求を過剰に他者に求める人だって、理由があって、そうなるべくしてなってるだけ。


例えば、幼少期に親との関係が上手くいかなかったとか、親と触れ合う機会が無かったとか。

そういう環境だと神経が育たなかったり、遺伝だってありえるのだから。

本人だけが100%悪いというわけではない。

【欲求が満たされないから不満を爆発させたり、バレないと思って悪口、陰口、を言ったり。あるいは投影をして他人を傷つけるなど、傷つける行為はイケナイです。それはやめてくださいね。】


でも、とても生きづらいのは確かで、本人は相当に辛い。

だから、入ってくる情報で「外向きな承認欲求はダメです!」「承認欲求はあったらダメ!」と見ると。

やっぱり自分の中にある「承認欲求」はダメなモノなんだ、「自分て何やってもダメだ」と思ってしまう。

これは、よく考えれば。
自分が悪いというよりは、環境が悪かったとか、そういう可能性も十分ある。

だから、「ダメな自分」に同情しないことです。

自分はなんて可哀想なんだ。
こんな可哀想な自分は良い人生は歩めない。

こう思っているならやめて欲しい。

こんな風に思っていれば「聞いて!聞いて!分かって!この気持ちを受け止めて!」と暴走してしまうから。

聞いて!分かって!と強く思うばかりに、相手の事情や時間を考えず。
自分の思いばかりを相手にぶつければ、それはトラブルになるのです。

または、自分のダメを見ないように、隠すために人助けをし、良い人に見せようとしたり。
距離をつめるだけ、つめて近くなって、自分の思い通りにならなければ見放す。

相手は相手の物語を生きている主人公で、あなたの親ではないし。

あなたの心に空いた穴を埋める存在ではない。「こんな理由があってこうなってしまった、そんな自分は不幸な環境で生きてきたんだ」

そうやって真実を受け入れて、「被害を受けている自分」に寄り添ってあげて欲しい。

仏教では、ありのままを見ると言われます。

それは、何がどう起こって、どうなったのか。
ちゃんと分析をして、ありのままを見るという事。

その上で受け入れる。

ただ「自分は可哀想な人間だ。自分は幸せになれない」と同情するのは、真実を見てない事になります。

だから、ちゃんと自分を知って寄り添って欲しいんです。

知っているのと、知らないのでは雲泥の差があります。

それと。

承認欲求がなさそうに見える人は、欲求の方向が違うのと、コントロールできるだけの違いです。


そもそも、「承認欲求がない」事に価値があるとは誰が決めた事なのでしょうか?

承認欲求なんて全員あるのに。

なんだか分からないウチに、脳に刷り込まれた常識ではないでしょうか。

まぁ、とはいえ。
確承認欲求が苦しめる事があるのも事実ですよね。

そこも考えなければいけません。

例えば。

承認欲求むき出しで、意見が合わない、自分の方が知識がある!
「それはちがうだろ!」と人前でマウントを取ったり。

「自分の方が上だ!」「これが正解だ!」と他人を責め立てたり。

自分を抑えられなくなりますからね。


今はTwitterでもスペースという、不特定多数の人が喋れる機能があったり、文字でのやり取りもそうですが。

そこで、マウントを取ったり、過剰に批判してるのを見たり、聞いた事があります。

「お前のやっている事は○○だ!」「○○のクセに!」などDMで直接言われる事もあると耳にしました。(自分も言われた事があります)


これを読んでる人も少なからず、見たり、聞いたりした方はいるのではないでしょうか?

こういうマウントは自分の中でまだ、抱えたものが残っている場合もあります。

例えば。

辛い時期を乗り越えて楽になると。
「楽になった!これがが正解なんだ!悟った!」と思ったりするものです。

そうすると、それがその人の中の正解であり正義なので。
それ以外は「認めない」という人も出てきます。

悟ったと思っているので、そうなってしまいますよね。

何かに怯えていた人であれば、怯えなくなった自分になった事に価値を見出し、このやり方、考え方が絶対に正しい!(価値を見出すのは悪くないと思いますし、正しいと自分の道を進む事は良いと思います)

そして「こうしなさい!こういう考えを持ちなさい!これが正解です!」と言う。

それまでの生きてきた中で、辛い時期を乗り越えたのは素晴らしい事です。

でも、まだ「自分」というモノを手に入れてないのではないか?
かつての自分もそうだったように、どうしてもそう思ってしまうのです。

凄く自信がありそうで、悟ったように見えても。
本当は、心の奥底では自信のなさ、無価値感、怒りはまだ残っていて。

「色々な考えがあっていい」「否定はしない」と言いながら、口調は強く批判的で。
これが絶対正しいと固執している。

この考えは〇です、でもこの考えは✕です。
そうやって合わないモノを批判しながら。

心の奥底に抱えたものを隠すように、しがみついて生きているように見える。

だから、もっと楽にしていいと思う。

物事は起こるべくして、起こっていて、みんな乗り越える力はある。
お互いの課題を分かっていれば入り込み過ぎないし。

人それぞれの人生という物語を生きている、だからその物語の中の価値観があって当然。
それは別にいいと思えば、必要以上に過剰に批判的になる必要もない。

承認欲求もあって当然だし。
ある、無し関係なくその人には価値がある。

そんな気がしてならないのです。

そうやって悩みながら経験して、コントロールしながら生きていくのが人間なんだと思う。

だから、承認欲求が「ある」「無い」とか。
どっちでも良くて扱い方次第。

「ある、無し」にショックを受けないでください。


承認欲求がない自分に価値があるなんて変でしょう?
元々、そんな事は関係なく価値があるんですよ。

「ダメ」な自分だって。

それって誰かに思わされてるだけなんじゃないですか?

だから、あまり気にし過ぎるのは良くない。
真実を見るんです。

上手く付き合っていくのが承認欲求との付き合い方です。

 

今日はここまで。

好き勝手書いてしまいましたが。
自分の事など思い返しながら、書いているので。
間違っても誰か特定の人を批判しようという訳では無いです。

読みづらい箇所もあったかと思いますが、ごめんなさい。

貴重な時間を頂き、最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。

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